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(荒井 枝美子 さま 68歳 東京都在住 「患者の集い・モミの木」会員)
私は、若い頃からどんなに働いても疲れないほど身体の丈夫な人でした。ですから今日、自分が肝臓がんで悩む人生になっていることは若い頃にはとても想像できませんでした。しかしまだ何とか頑張っています。それではこれまでの経過をご参考までに簡単にお話します。
私は現在満68歳、2人の成人した子供を持つ主婦です。自分で肝臓が悪いと自覚したのは
44歳のときでした。そのときは、突然、目の前が真っ暗になり倒れました。医者は慢性肝炎との診断でしたが当時はわかっていなかったC型肝炎であったのです。20歳代に子宮外妊娠をしたときの輸血が原因であったと後にわかりました。その後数年のうちに肝硬変となり肝硬変になると肝がんになりやすいので肝臓の薬の服用に加え、毎月のようにレントゲンや超音波での検査を続けました。その頃からであったと思いますがびわ茶が肝臓にはよいと本で読みびわ茶を自分でつくって飲むことを今日まで15年以上続けています。
私の肝臓がんがはじめて発見されたのは今から10年前、58歳の時でした。
市民病院のCT検査で診断されたのですが、腫瘍がまだ小さいのでもうすこし様子をみてみましょうといわれて帰ってきました。
翌年がんセンターに入院、エタノールの注入や抗がん剤の静脈からの注入などを繰り返しました。がんのある場所が背中に近いほうにあったこともあり、これらの方法は、なかなか的中できなかっただけでなく、特にエタノールの注入は右脇の肋骨の間から針をさして行うだけにとても苦痛でした。また抗がん剤の副作用は脱毛やひどい吐き気を催し耐え難いものでした。にもかかわらず肝がんの腫瘍マーカーの数値は著しく上昇、96年7月に手術で病巣を切除(肝臓の約 1/8 )しました。 このとき私はここで手術をしなければ何年ぐらい生きられるのかとたずねました。執刀した医師は、1−2年かな、とってしまえば治ると思うが確率は50:50。ただし術後何年生きられるかという統計は(当時は)5年以上のデータが不足しているのでわからないとのことでした。96年8月手術は一応の成功をみて退院。私はこれで治るのかと期待していました。ところが退院して2ヵ月半後の11月、胸水がたまるようになり水抜きしながらの入院治療を翌年の3月末まで続けなくてはなりませんでした。がんセンターでの入院生活は合計で227日になりました。胸水を抜いている期間中、食欲は失せわずかに摂取した栄養分も胸水となって出てしまうらしく、体重は減り骨と皮だけになったように思いました。
胸水を抜くことは24時間中わき腹にチューブを刺しているのでそれだけでも苦痛であり、“いつまで続くのでしょうか、そしてなぜこういう症状がでるのでしょうか?”との医師への問いに対し “そんなことはわからんよ、われわれだって手探りでやっているんだ” といわれました。同じ医師に、“血液検査の結果などの数値の書いてある紙をいただきたいのですが”とお願いしたら、私の顔を上から下に眺め “何をいうんだ、いちいちそんなことをしていたら大変だ” といってもらえなかったこと、いつまでたっても退院できないし毎日の胸水の排出量が減ってきたので退院したいといったら “まだ停まっていないんだからどうなっても知らないよ”、といわれたのですが退院したら自然に停まってしまったこと、など今もって忘れられない経験をいたしました。実を言って私の夫の友人で国の内外の医療関係に従事している方々からその病院にだけ頼らず他の病院にも診てもらうべきだとの忠告が頻繁に来ていました。あまりに入院が永かったことや胸水をただただ抜くだけでなんら治療らしい治療が見られなかったことなどを心配してくださったものと思います。しかし、わき腹にチューブが差し込んである状況では退院したくてもどうすることもできませんでした。
退院後はいろいろな病院を訪ねました。ある医師はいわゆるマルヤマワクチンを強く勧めてくださいました。またある人は AHCC という健康食品を薦めてくださいました。いずれもそのときから今日まで続けていますのでマルヤマワクチンの注射は1200本を越えました。
このようなことが功を奏したのでしょうか、術後の約4年間は再発がありませんでしたが2000年5月、やや大きな腫瘍1つと小さいのが2つ見つかりました。もう再発はないだろうと医師から励まされていただけにまったく落ち込んでしまいました。
この4年間にいろいろの病院を訪ねていましたが、前述のがんセンターのほかに一番永く通っていた病院は千葉にある総合病院でした。それまで読んだがん関連の書物の中で一番わかりやすく信頼の持てると思った本の著者の先生がその病院に居られ訪ねていったことがきっかけでした。しかし、両方の病院の医師のお二人とも、再発に際し、異口同音に“エタノールと抗がん剤で治療しましょう”という言葉でした。私は、“あぁまたか”、あのつらい日々を思い出すだけでなく、瞬間的にがんセンターで エタノールも抗がん剤も効かなくて、結局、外科手術になったこと、そうなると今の自分は血小板の数値が低くなっているため出血を伴う治療は危険であることなどが頭をよぎりどうしてもその気になれませんでした。
あのような治療を繰り返すのであれば延命することはあきらめようか、とまで思いつめる日々を過ごしていたとき、夫の友人の紹介で免疫細胞療法を行っている先生で江川先生という方が居られるので是非一度お目にかかってお話してみることをお勧めしますという話が入ってきました。正直に言って免疫細胞療法と言う言葉ははじめて聴く言葉でもあり何もわかりませんでした。
江川先生は、お目にかかってお話を聞きましたが、まず、これまでにお目にかかったことのあるドクターとは、まったく違う印象を受けました。この治療をやればきっとよくなるということは一言もお話にならなかったと思います。ただ、先生は免疫細胞療法がまだ研究段階にあった頃、がんの末期にあったご自分の兄にまず試され、お兄さんは、亡くなる3日前までお元気に活動されていたというお話をとつとつと静かに話され、そして自分はこの研究が人々の役にたてばと思い開業したことをお話されました。私は、夫とも相談して、“これを最後にやってみよう、だめだったらあきらめよう”、と決心しました。
はじめのうちは、正直に言って半信半疑でした。これまでの闘病生活で気が小さくなっていたのです、何か副作用がでてくるのではないかと。オヤッと思ったのは、3回目の点滴を終えた頃から なんとなく力がついてきたような体が軽くなったように感じました。それまではちょっと動くと疲れしばらく横になって休まないと動けない状態でしたので、私にとっては何よりうれしい体の変化でした。それからは気力も体力もしだいに回復し治療を受けに行くのが楽しみにさえ感じられるようになりました。
私の場合最初は2週間に1回のペースで治療を受けました。1クール(6回)を3ヶ月かけて集中的におこない、2クール目からは少し間隔をあけて月に1回のペースに変えました。この間、腫瘍は小さくもならず、しかし大きくもならず、まったく変化はありませんでした。“消えないまでも、大きく成長しないだけで、非常によいことなのですよ”と、江川先生や後藤先生に言われて納得していたのですが、その言を覆すような異変が起きたのは、3クール目が終わった時点でした。再発のときの CT の写真から小さな腫瘍が2つとも消えていたのです。それだけでなく、大きな腫瘍の方も中心部が真っ黒に写っており、後藤先生の説明では、がん細胞が壊死した状態とのことでした。
“よかったー、 ああ、やってよかったぁ”、と心の底から思いました。
免疫細胞療法の魅力は、副作用がないことに加え、元気がメキメキ出てくることだと思います。この治療を始めてからは、夫とともに好きなゴルフをしたり、温泉にもたびたび出かけられるようになりました。年に2−3回は海外旅行も楽しんでいます。
しかし、私の体調はまったく問題ない状況ではありません。肝臓がんのほかにも胆石や静脈瘤があり 定期的に胃カメラを飲んで検査しておく必要があります。歯も悪く、最近では鼻血がたびたび出たり痔のために自分でも驚くほど出血することがあります。
免疫細胞療法は今も月に1回のペースで続けています。体内には、依然として腫瘍が残っています。“そろそろ疲れた?”“じゃあ、家の中に入ろうか”。趣味の庭いじりをしているときなど、そんなふうに体と相談しながら、無理をしないように心がけています。食後は必ず1時間はゆっくり体を横に休めています。ですから、ゴルフも途中で昼食をとることはしません、18ホールを続けて回ることにしています。昔は大好きであった酒タバコはもう20年以上絶っています。
かなりの長文になってしまいましたが私の話が何かの役にたてばと思い思うままを書きました。私は幸いなことに自分にあったがんの治療にめぐりあえたと思います。どうか、がんの治療に限らずすべての治療に際してその方法、病院、医師の先生を固定的に考えずに自分の納得のいくまで捜し求めることがよいのではないかと思います。
がんになってから私は体にはずいぶん気を使うようになりました。がその一方で、自分が病気であることを極力忘れるように努めています。逆にできるだけ楽しいとおもえる生活が過ごせるように工夫しています。そうすることで自分の体に少しでも免疫力が高まるように努めているのです。
2005年5月
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